寄稿 『原発とトイレ』

最首悟 (原発メーカー訴訟原告)

 

トイレがダメになって取り替えた。立ち上がると水が流れる。至れり尽くせりである。そんなにしなくてもと思うものの、便利であり、快適である。そんなにしなくてもという思いの中に、とにかく水が流れて、そして詰まらなければよい、つまり、水が流れず詰まったらどうしようもない、生活が成り立たないという思いがドンとある。

原発にトイレがない。どうしようもない話ではないか。

 

アパートでも、マンションでも高層建築に住むものかと痛切に思ったことがあった。60年代末の大学闘争、それはお金しだいの科学技術文明批判を根底にはらむものであった。東大では69年1月18日大規模な機動隊導入があった。わたしは32歳の助手であったのだが、東大教養学部、いわゆる駒場の第8本館に学生75人と籠城していた。この籠城はその3日後の21日までおこなわれたのだが、大きな建物と言えない4階建ての、その1階を除く部分に水道電気を断たれ包囲されてから、2週間強をすごした。

 

閉じこもって、思ってもみなかった事態がすぐに発生した。大小便の始末である。食料は長期戦を想定して女子学生たちが厳重に管理したので、空腹であるけれど飢えなかった。しかし少量でも食べたからには出さねばならない。それぞれの階の便器はあっという間に大便と新聞紙で山盛りになった。新聞紙でくるんで包囲陣に投げつければ一石二鳥ではという意見が真面目に出された。実現しなかったが。

 

水洗便所は水がなければ無用の長物、でも一戸建てなら、庭とまでゆかずとも穴を掘って埋めて当座はしのげるスペースがあるだろう。高層建築に住みたくないとほんとに思った。

 

名古屋市水道局の「水のライブラリー」のトイレの話から――「近世になっても、パリやロンドンなどの都市では、3・4階の建物が多く、共同トイレが屋外にあったため、上の階の住民は用足しに降りてくるのが面倒なので『おまる』を愛用して、夜のうちに窓から糞尿を投げ捨てていたので、道路は汚物でぬかるみ、悪臭を漂わせていました」。すさまじい様子である。ロンドンも同じ。ハイヒールや帽子や傘が必需であった。水洗トイレが行き渡るのは第2次大戦後のことだという。

 

しかし水洗トイレの問題がなくなったわけではない。水に流した汚物は川や海に放出された。そして富栄養化の問題が起こる。舟で沖合に運んで投棄しても同じ問題が起こる。最後はやはり生物頼み、活性汚泥処理をするしかないとして実現したのが、日本では1971年である。

 

話をまとめると、都市のトイレは汚物を水に流し、そして微生物による分解に頼るしかないということである。

 

前置きが長くなったが、これで、周知のように、原発にトイレはない ということがはっきりする。トイレを原発開発設置段階で考慮しなかったのでなく、そもそもトイレはつくりようがないのである。槌田敦はそのことを端的に放射性廃棄物はない、あるのは放射性廃物のみと言った。廃物はプルトニウムを生み出すので廃物どころではない。そのことも相俟って、固形化し、穴を掘って埋めるしかない。

 

そもそもトイレなき原発などで大騒ぎするのがおかしいという意見は根強い。例えばNHK上がりの池田信夫などそうである。六ヶ所村の再処理の経済性は疑わしいので、いずれ不要になる、その跡地利用として埋めればよい。施設もあるから管理に容易だしプルトニウムも取り出せる。実現しないのは政治が障害になっているからだ。妨げているのが、ゼロリスクを求める国民感情と、それに迎合する政治家やマスコミである。おまけに学術会議の科学者までゼロリスクの大合唱に加わるようでは、合意形成の道は遠い、というのである。なり振りかまわぬこのガムシャラぶりが通ってゆくのか。ゼロリスクこそ掲げる旗である。