English,  Chinese,  German

 

原発メーカー訴訟の趣旨と意義

はじめに

2011年3月11日の東日本大震災を端緒とする福島第一原発における史上最悪の原発事故、そして未だに収束の見通しさえ立たない甚大なる被害。その被害の発生原因が、原子炉の欠陥にあるとすれば、その製造者である原発メーカーが責任を負うべきは当然のことです。

原発メーカー訴訟は、文字通り、この当然の法律関係を明確にするため、福島第一原発の原子炉を造ったメーカーであるGE、東芝、日立を被告として、原発事故の責任を問う裁判です。しかし、皆さんご存じの通り、本訴訟には、非常に困難な特別な論点と、それ故の画期的な意義があります。

  

いよいよ裁判が始まろうとする今、改めて本訴訟の論点と意義を確認しておきたいと思います。

 

ノー・ニュークス権

まず、本件のような場合、原発メーカーは、製造物責任(PL)法や民法上の不法行為責任を負うはずです。しかし、原発事故については、原子力損害賠償法(以下「原賠法」)に規定された責任集中制度により、原子力事業者(本件では東京電力)のみが責任を負い、その他はすべて免責とされています。これにより、我々の請求は、通常であれば簡単に棄却判決を言い渡されることになります。

 

しかし、原子炉の欠陥や自らの過失によって事故が発生したとしても、原発メーカーは一切の責任を免れるとすれば、それはあまりにも不合理な話です。そんなことがまかり通れば、安全性よりも営利性を重視した原子炉が造られるということにもなりかねません。

 

そこで、我々は、責任集中制度は憲法に反し、無効であることを主張することにしました。その中心は、責任集中制度が、原子力の恐怖から免れて生きる権利、すなわち「ノー・ニュークス権」を侵害しているという主張です。

 

例えば、名誉権やプライバシー権は、憲法のどこにも書かれてはいませんが、今や誰もが認める人権です。時代の変化によって新しい人権が必要となった場合には、裁判で、憲法13条の幸福追求権等を根拠とした主張をし、主に人格権の1類型として裁判所がこれを認めることにより、憲法上の人権として定着していくのです。

  

核兵器のみならず、原発による原子力被害の実態とその深刻さを、度重なる事故により身をもって知ることになった私たちには、もはや原子力の恐怖を甘受しながら生きていかなければならない理由はありません。原子力の恐怖に怯えながら生きていくことを拒絶することは、もはや主義主張や感情ではなく、全世界の人々に認められるべき人権と言うべきです。

  

そこで、我々は、ノー・ニュークス権を憲法13条と社会的生存権を規定する25条を根拠として主張することにしました。国に対して、余計なことをするなと主張する自由権としての13条と併せて、請求権としての25条を入れるのは、原子力の恐怖に晒されることのない政策を求める権利でもあることを意味します。これにより、原発政策をやめろというだけではなく、例えば、遅々として進まない「子ども・被災者支援法」に基づく具体的な政策を要求することもできるのです。

このようにノー・ニュークス権は、今や新しい人権として認められて当然の権利であると同時に、これが認められれば、極めて広い範囲に渡って脱原発運動に大きな力をもたらすことになるでしょう。

責任集中制度

原発メーカーを免責する責任集中制度は、驚くべきことに、法律や条約によって、世界中を覆う原子力損害賠償の原則となっています。つまり、原発メーカーは、巨大な利益を約束された上、いかなる責任からも免れて原子炉の製造に専念することができる制度を用意され、これによって世界中に原発体制の増殖を図ろうという仕組みが責任集中制度なのです。

  

これらのことから、責任集中制度に挑む本訴訟は、原発体制の中核に切り込む闘いであり、世界中の人たちが同じ問題意識を持って合流することができる、正に国際連帯に相応しいテーマを有するものです。本訴訟の被告は、GE、東芝、日立の3社のみですが、実質的には世界中の原発メーカーが被告であり、さらに原発体制そのものが相手方だと言っても決して過言ではありません。

  

非常に困難な訴訟ではありますが、同時に、極めて大きな意義を有する画期的な訴訟です。約4200名の原告の皆さんと、今、このような闘いを始められることを喜びながら、弁護団全員、強い使命感を持って臨みたいと思います。

弁護団共同代表 島 昭宏